マンガばっかり

マンガ批評

鈴木先生


★★★★★
武富健治による先生もの。
パワーと新しさを認めるにはやぶさかではないが、鈴木先生の論理には全く同調することができなかった… かつてそんなコメントを書いたと思うが、完結し、ドラマ化も果たした後で通読してみると、読み込み不足があったこと、そして、それなりの正しさもあったということの両方を感じた。
読み込み不足の点から触れれば、以前のコメントを書いた時点では、金八先生的に、熱血と思いやりとパワーと運とで、生徒たちからカリスマ的に慕われる予定調和の先生ものを自分自身が求めすぎていたと思う。
たしかに鈴木先生は、金八先生も及ばないくらいのカリスマ先生だったことを読了した後でも思うのだが、そのカリスマぶりは、むしろカリスマではないところに発している。
つまり生徒たちに「上から目線」ではなく、対話を交わしながらギリギリ、スレスレに生きて、連戦連勝するという意味でのカリスマ先生だ。
つまり本作は、先生ものと言うよりも、スポ根ものとして読んだ方がいいように思う。
武富の世界をドストエフスキーと比較する声もあるようだが、たしかにここにあるのは対話、ポリフォニーのあやなす世界のおもしろさとおそろしさかもしれない。
スポーツと違ってテクニックの応酬ではなく、言葉と論理の応酬だ。
しかし、やはりリアリティを欠いていると思う。
生徒の恋愛やら友情やらクラブ活動やらに、あそこまで突っ込む必要などないと思うし、そうしたことを自分たちで解決したり忘れたり(「時間がたてば忘れる」という最大にして最多の解決方法に触れていないのも本作の欠点の一つかもしれない)することこそが中学生に求められる「成長」でもあったのではないだろうか?
そして、鈴木先生による問題の解決、とは言わなくても、その対処の仕方が、いつも唯一絶対の方法であったかのように描かれていたが、必ずしも納得のいかないものもあった。
鈴木先生の方法からは逸脱する生徒もおそらくいたはずだし、逸脱こそしなくても、「なんだかなぁ」と思いながらブスブスとくすぶっている人間はもっといたはずだと思う。
全員が一丸となって文化祭の劇に打ち込むというのもうさんくさい…
もちろんアン・リアルで勝負する方法というのもフィクションには許されている。
ただ、途中までリアルで攻めていながら、最後の最後にアン・リアルに持ち込むというのは、緻密な密室殺人事件の最後を「夢落ち」で締めくくるようなものではないだろうか?
しかし、そんなことまでも含めて、やはりこの思想マンガ、というか人間マンガはすごいものだと言わざるを得ない。
こんなことあるわけない! と思って、鈴木先生に対して徹底的に批判的に読んでみること。
それも、「鈴木先生」を読むことの「正しいあり方」なのかもしれない。
なによりも鈴木先生自身が、そんな読み方を奨励してくれるように思うのだ。