マンガばっかり

マンガ批評

神聖喜劇


★★★★★
原作・大西巨人、企画・脚色・岩田和博、漫画・のぞゑのぶひさによる今年度の手塚治虫文化賞の新生賞受賞作品。
これを読み通した人は少ないと思う。漫画でありながら、圧倒的な文字量と漢字量。ほとんどが1巻の途中あたりで断念すると思う。漫画としての評価は、花輪和一のような手描き仕事の粗さと端正さを認めるのはやぶさかではないけれど、惹かれたのは何よりも原作の魅力であった。では、果たして原作を読み通せたかと言えば、おそらく読み通せなかったと思うので、その意味では漫画版ならではのよさがあったと言うべきなのかもしれないけれど…
さて、神聖喜劇を読みながら感じたのは、この夏ずっと読み続けていた野坂昭如の作品について感じていたのとほぼ同じである。野坂も大西も、反戦厭戦・反軍… といった言葉で一括りにされることが多いけれど、そうした言葉にふさわしいようなものはほとんどなかったばかりでなく、彼らが訴えようとしたこと、糾弾しようとしたことは、むしろ「反戦厭戦・反軍と言っておけば一安心」というような無自覚・無責任な近代日本人の生き方なのである。自分の生き方は、自分が得た限りの情報に基づいて、自分の生きる時代でのみ決めていかざるを得ないので、他の人にとって、或いは他の時代に生きる人から見たら滑稽かもしれないし、明確に誤りだと言われるようなものかもしれない。しかし「滑稽である」あるいは「異色である」という批判を恐れて周囲に合わせ、文句を言いつつ生きていくより、一人一人がきちんと生きていくことの方が、よほど万人にとっても住みやすい国になるのではないだろうか。
戦争の悲惨さをヒステリックに訴えられるような単純さ、ノリのよさ、自己陶酔性は、「欲しがりません勝つまでは」とヒステリックに訴え、隣組の非国民を糾弾する元気で人がよくてノリがよかった人々と全く共通している。例えば阪神大震災被災者という非常事態を経験した者として、戦時下の空気について共感できる点がまことに多かった。「被災者」という言葉が阪神一帯で問答無用のパスポートになったおかしさ、「ガンバレはダメでガンバロウと言わなければならない」という風潮、とりわけ、ガンバレという言葉に対する隣組的チェック機能がとてもよく機能していたことが忘れられない。「震災は大変なできごとであった」とまとめるには、あまりにもノンキであったし、「震災はたいしたことがない」と言われると、それはそれで、やはり間違いであると思う。同じことは、戦争にだって、環境問題にだって言えることではないだろうか。
漫画版の解説にも神聖喜劇を必読書であるとする人が多かったが、なるほど確かに必読書であると思う。良くも悪くも非常時という感じが漂っていない現代日本を生きる人にこそ、この非常時を描いた作品は必読書であるように思える。